音響監督 本田 保則(ほんだ やすのり) さん
プロフィール
1943年 富山県生まれ。 音響監督。 当連盟名誉会員。 富山大学(経済学部)卒業後、演出家を志して上京。 「劇団造形」に入団。 1966年 株式会社竜の子プロダクション入社。アニメーションの音響制作に従事する。フリーランスを経て1974年 株式会社アーツ・プロを設立。 以後、音響監督として数多くのアニメーションを手掛ける。2014年株式会社アーツ・プロをご自身の判断で解散。フリーランスとして音響監督を継続。
主な作品
【アニメーション】
『金田一少年の事件簿R』『テレビまんが 昭和物語』『蒼天航路』『遙かなる時空の中で』『MONSTER』 『花田少年史』『MASTERキートン』『天地無用!』『ちびまる子ちゃん』『超時空要塞マクロス』『宇宙の騎士テッカマン』『破裏拳ポリマー』
執筆
『声優の教科書―基礎編からプロでも役立つ実践編まで』(ソニーマガジンズ2000年)
音声連に加盟して30年
音声連に加盟された当時のことをお聞かせください。
音声連への加盟は何年になっていますか? 1983年10月ですか。もう30年以上もたっていますね。お恥ずかしい次第です。
ザック・プロモーション(設立:1975年/音声連加盟:1978年3月)さんかオムニバスプロモーション(設立:1963年/音声連加盟:1978年3月)さんのお誘いがあって加盟させていただいたんだと思います。フリーの音響監督から、アニメーションに特化したような形の音響制作会社としてアーツ・プロを設立したのが、僕がちょうど30歳の時でした。会社設立が1974年の10月だったと記憶していますから、会社を起こしてから9年目だったんですね。アニメの音響制作だけという会社としては、古いほうかもしれませんね。オムニバスプロモーションさんは、外画の吹替えも制作されながらでしたから。
まだ僕が会社を起こす前でしたが、タバックさんが設立された時(1973年)には東映アニメーション(当時は東映動画)さんの仕事もずいぶん手伝わせていただきました。それ以後もアニメーションの制作本数は実に多かったですね。アニメブームみたいなものもありましたね。
オーディオ・プランニング・ユー(設立:1972年/音声連加盟:1983年10月)さんも同じくらいに加盟していると思うんですよ。後は音響映像システム(設立:1973年/音声連加盟:1983年10月)、今のサンオンキョーさんも同じ頃だと思います。
1990年から理事や監事をほぼ毎年のように歴任されています。在職当時のことで印象に残っていることはありますか。
音声連は今は「一般社団法人」ですね。その前が「有限責任中間法人」でした。そこにいたるまでの期間、音声連が単なる業界の親睦団体ではなく、その上を目指そうとしても、まだまだ社会的な認知というのが無かった時代がありますよね。僕もまだちょっと若い頃でさほど知識もないのに、いずれは法人格の取得に向かっていかなきゃならないんじゃないかということで、いろいろな理事の方と毎回毎回、話し合いをしました。有限責任中間法人になるまで何年もかかってるんですよね。
当時、理事長だった塚田さんが法人格取得のためにたいへん苦労をされていました。僕も理事に名を連ねていましたので、法人化に向けては是非とも一歩踏み出さなきゃいけないと思っていました。
あの時ちょうど日俳連(協同組合日本俳優連合)さんとの間の協定の見直しという、もうひとつの課題が重なっていたんですね。先方は協同組合の形ですよね。しかし僕ら(音声連)は任意団体ということで交渉の当事者としての権限が無いわけですよ。団体としての交渉は難しい。各社一番苦しんだのはそこじゃないですかね。音声連という連盟に加盟していても、仕事を依頼され受けるということに関しては「各社対応」になるわけですよね。そうすると足並みが揃わないということよりも、各社それぞれが悩みを持ったり、どこかで壁にぶつかるわけです。特に権利処理の問題に関しては、日俳連さんは法人として権限を持ってらっしゃいますから完全に当事者なんですね。でも我々は当事者に成り得ないということで、「音声連は日俳連の擁護団体じゃないか」という意見すらあった時代でした。
理事会でもかなり辛辣な意見が飛び出していました。法人格を得るために、音声連の内でも外でも走り回っていたあの頃が、それまでの音声連から脱皮できた時代だなと思います。
法人格を得たことで様々な事の交渉においても、音声連に加盟しているということをメリットとして交渉を進めることができるようになりましたよね。加盟各社もそれぞれの対応の経緯と結果を、音声連の事務局に問い合わせたり、報告したりすることが増えてきていたと思います。 本田保則さん 「うちではこんな処理をしました」という形で、音声連にたくさんの事例が集まってきました。TV以外にもビデオ、DVD、ゲーム、Webなど対応すべきものが増えてきましたけれど、音声連側にあらかじめその状況にうまく対応するための準備ができるようになりましたね。実際に各社がいろいろなクライアントさんと折衝するにあたっては、なかなか聞いていただけないこともありましたけどね。
新しい音響制作会社が次々に誕生しています。次の世代の皆さんに向けてメッセージをお願いします。
─新しい音響制作会社が次々に誕生しています。次の世代の皆さんに向けてメッセージをお願いします。
会社を立ち上げられて一番大事なのは、我々の仕事というものを世間に理解されないといけないだろうということですね。我々の仕事というのは、一種の請負業です。そうするとやはりどうしても業界の色々な連鎖の中でやっていくことになります。ウチはいいんですと言っていたら、せっかくのビジネスチャンスもなくなるし、後輩の諸君なんかは育ちにくいじゃないですか。企業としてちゃんと社会的に認知されていますよというところからスタートした方がいいと思います。
僕にも本当は後進の人を育てなければいけないという役割もあったと思うんです。しかし能力的に及ばなかったのか、自分の“本田保則”という名前だけが先行してしまってですね、僕の所で頑張っている諸君にチャンスというものを渡していけなかった時期があるのかなと。これは僕の反省なんですけど。
それと、我々の業界というものが時代と共に大きくなっていく中で、今や当たり前になっている業界のコンプライアンスをちゃんとしていかなければならないと思うんです。はじめは放送にほとんど特化した業界だったけれど、様々なメディアに広がっているという流れがありますよね。その状況の中で、僕は音声連に加盟していて良かったなと思っています。毎月理事や委員の皆さんが集まられて情報を共有しながら業界全体ということを考えていく。連携をとったり、あるいはそれぞれの特色を出しつつ、この業界で生き残っていかなければならないわけです。その生き残りのためには業界全体で未来について考えていくことも必要だということですね。
僕のような一介の現場出身者であれ、大きな制作会社から独立された方であれ、同じ基盤の元でお互いが情報交換しあっていける。そして共通のルール(団体協約)を遵守しながらやっていくということがね、足かせでもなんでもなくて、とても重要なことだと僕は思っています。
吉田竜夫さんとの出会い
ここで改めて、音響監督になったきっかけをお教えください。
学生時代から地元の富山で、NHK放送劇団のプロデューサーの助手をしたり、大学の劇団で演出をしたりしていました。大学を卒業して郷里を飛び出して、東京に出てきました。僕は今でも我ながらどうしようもないやつだったと思っているのですけど、就職もせずに東京の劇団に入ったんですね。島宇志夫という人が主宰していた『劇団造形』。そこの看板スターが、この世界でも活躍されてる堀勝之祐さんでした。彼と今現場でいっしょになって当時の話をしても、「あんた、いたのかぁ」と言われる、その程度の存在でしたけど。演出助手って、簡単に言えば使いっ走りですよ。劇団から給料が出るなんてことはありませんし、公演があるとなるとそれだけに拘束されますから、その間の生活費も自分で持たなければいけないのでアルバイトをしていました。
新橋の『重役室』という名前の喫茶店でした。そこのマスターはね、客が来ないなと思うと「ちょっと行ってくるから」と出て行って、ほとんど帰ってこないんです。すぐ近くに馬券売場があったんですね。僕なんかコーヒーの入れ方も何もわからないんですけど、見よう見まねでお客さんの注文に応えてました。
その店に毎週必ず来てくれたのが、今のタツノコプロ、当時の竜の子プロダクション創立者の吉田竜夫さんという漫画家だったんです。近くの塩釜公園のところに朝日録音というスタジオがありまして、そこで日本で何本目かのTVアニメーション『宇宙エース』という作品のアフレコが開始されていました。僕はまったく興味も何も無くて、これが漫画映画か、という程度でしたけどね。その吉田竜夫さんに、「芝居は金にならんだろう」と言われて。「そうなんです、金にならないんです。だからアルバイトをしているんです」と答えたら、「だったらうちへ来ないか」と誘われたんです。毎月ある程度のものは出すよと言ってくださってね。これでもうアルバイトしなくていいんだと思うと同時に「これで俺は芝居の世界から遠のいてしまうんだな」とか、いろんな事を考えました。
こうして初めて就職したのがタツノコプロなんです。昭和41年…1966年の11月のことでした。ただその後、この仕事が実際に身に付くまでは大変で、これなら小さな劇団にアルバイトしながらでもいた方が良かったんじゃないか、と思った事もありましたね。
僕がタツノコで最初にアシスタントについたのが『マッハGoGoGo』という作品で、これが日本で初めてのカラーアニメーション作品です。その後も『おらぁグズラだど』とかいろいろな作品の音声・音響を制作しましたけど、『みなしごハッチ』かな、『紅三四郎』かな、その頃にタツノコを出たんです。5年ちょっといたことになるんですよね。
その後、フリーで何年かやって、それからアーツ・プロを作るんですけど、この会社を作ることになったのも、吉田竜夫さんがきっかけをくださったんです。「仕事を出したくても個人じゃどうしようもないんだよ」と言われました。当時はオムニバスプロモーションさんが読売広告社を通じてタツノコさんの音響制作をずっとおやりになっていたんですけれど、「次の作品を外部に」となった時に、吉田さんが僕のことを憶えていてくれましてね。「とにかく会社を作れ。お前ひとりの会社でもいいから」ということで、アーツ・プロを設立しました。アーツ・プロ最初の受注はタツノコさんの『破裏拳ポリマー』という作品でした。僕のやることが心配だったんでしょう、必ずスタジオへ来てくれていました。
吉田竜夫さんは45歳で亡くなりました。ものすごく若いんですよね。アーツ・プロを立ち上げて1〜2年後ですかね。とてもとてもショックでした。『宇宙の騎士テッカマン』という作品をやっていた時でした。訃報を聞いて、もう飛んで行きました。その1週間前に僕はお見舞いに行っているんです。なけなしのお金でメロンを買っていったんですが「貧乏なやつがそんなことするな。持って帰れ」って言われました。持って帰ってもしかたなかったんですけどね。僕の会社のことを最期まで心配してくれていました。
左から『ハクション大魔王』DVD-BOX 7枚組全104話完全収録
ⓒタツノコプロ 『宇宙の騎士テッカマン』DVD-BOX 5枚組全26話完全収録
ⓒタツノコプロ 『破裏拳ポリマー』DVD-BOX 5枚組全26話完全収録 ⓒタツノコプロ
業界に目を向けて
名誉会員になられて思う事をお教えください。
名誉会員なんていう形を作っていただいて、あまりに過大評価されているんじゃないかと恐縮しているんですけどね。
僕を含めてある程度のベテランは、次の世代がどうすれば少しでもやりやすくなるかということを考えて、常にそのことを念頭おいていく。僕自身が勝手に思っていることですけどね。音声連が一歩一歩ステップを確実に踏んで、ここまで来ているということをしっかり理解してもらえればと思います。次の世代の人たちにも、「自分たちの主張することが何とか社会に認めていただけるための有効な場ですよ、ここが一番有効な場なんですよ」ということをぜひ考えていって欲しいなと思っています。
奇しくも今、僕は東映アニメーションさんの仕事をさせていただいています。初めてだと思うんですよ、音響監督として携わるのは。今までも現場の運行を助けてくれればいいよという形では手伝っていた例はありますけど、今回は正式に音響監督という立場です。かつての東映動画時代と東映アニメーションさんもずいぶん様変わりしていますし、プロデューサーの方々も世代交代をしていますよね。僕がもし担当するにあたってということで、こちらから「音声連で築いてきたことを理解してもらえますか」という話もできましてね。もちろんですというお返事をもらって。僕もこの歳になってなお現場をやらせてもらえるというのはたいへん感謝してるんですけど、次の世代の人たちについても同じ立場を、きちっと認知していただけたんではないかと思います。我々、音響制作を預かっていく者の立ち位置というようなものをご理解いただいたということではないでしょうか。
東映アニメーションさんはTVと同時にあらゆるメディアをつなげて動かしていく形になっているんですよね。その大きなビジネスの中に、音声連で築いてきたものが一つでも二つでも浸透していくきっかけになっていってくれればいいのですが。これから音響監督を志そうとする人たちに、少しでも道を開くことができればと思っています。
我々のクライアントはどんどん資本形態が変わっていっています。今までのアニメーション制作の会社はほとんど大資本の中に組み入れられていく中で、我々の仕事はまだまだ余地を残しているというか、各社の努力次第で生き抜ける余地がありますよね。その余地をどこで確かめて、どこで確認しあって、どこに確固たる軸足を置けるかということを考えた時に、音声連の役割は大きいと思うんですよね。新しい会社に加盟していただくにあたっても、便宜的に音声連にいればという考えではなく、音声連が今後どうやっていけばいいのか、音声連の可能性というのはどういうものなのかということを考えて欲しいですよね。音声連もずっとこのままの姿でいいということは、今後の社会の要請などを考えたらあり得ないと思うんです。広がっていくメディアの世界でどうあろうとするのか。この音声連というのはこれだけの歴史の積重ねもあるけれども、これからが大切なんだということを考えていって欲しいと思います。
このたび名誉会員という称号を設けていただいて、少し恥ずかしくも思っています。とてもご意見番なんてことはできないんですけど、いつでも心の中に業界のことを気にかけるという場所を作ってもらえたということにはありがたいと思っています。ここに目を向けていられるというだけでもね、良いと思うんですよね。
「退会したから関係ない」ということは、もう口が裂けても言えなくなってしまいました。(笑)