音響監督 田中 英行(たなか ひでゆき) さん
プロフィール
1942年生まれ、北海道出身。 アニメーション音響監督。 株式会社 AUDIO・タナカ 代表取締役社長。当連盟名誉会員。 1964年、番町スタジオにアルバイトで入り、1966年入社。選曲・ミキサーを経て音響監督に。1990年 株式会社 AUDIO・タナカを設立。以後、音響監督として数多くのアニメーションを手掛ける。また1988年よりシグマ・セブンで教鞭をとり、多くの役者を育てる。
主な監督作品
【アニメーション】
『新世紀エヴァンゲリオン』『少女革命ウテナ』『爆走兄弟レッツ&ゴー』『機動戦艦ナデシコ』『アキハバラ電脳組』『セイバーマリオネット』『怪傑蒸気探偵団』『スーパービーダマン』『ボーイズビー』『ラブひな』 他多数。
音声業界に入ってからの道のり
どういうきっかけで音声制作の仕事に入られたのですか。
学生時代に番町スタジオにアルバイトに入ったのがきっかけで、この仕事を始めることになりました。1964年のことですね。 アルバイトはまず映写の仕事から始めるんですよ。スタジオのシステムとしては、映写をやって、それから助手をやる。助手というのはレコーダーという機械を扱う仕事です。それからミキサーになる、という三段階になっていたんです。レコーダーはMEなどの貴重なものを扱うので正式に会社に入らないとやれなかったんです。ですからアルバイトの時は映写ばかりでした。
映写の仕事では、吹替えの演出をするディレクターの指示で指定された場面の画を出さないといけないのですが、それをするのがアルバイトの中で僕が一番速かったんです。アフレコ中に自分なりに考えて、映写しながらディレクターから指示が出そうなところに紙をポンポン挟んで、そこにマークを打っておくんです。後から役者さんが録り直しや別録りをするときにそこの画をスっと出すんです。その映写の対応が速いというのが買われたのか、この仕事にむいているから社員になれと言われて社員になりました。
ミキサーになるのは早かったですね。2年半ぐらいでミキサーをやらせてもらっていました。だいたい5年ぐらいかかるものでしたけれど。 私が助手としてついた方が安達さんというミキサーで、一番怖い人だったんですね。遅いと怒られたので、とにかく速くやらなきゃなりませんでした。
当時、番町スタジオにきていた音声制作会社には、有村放送プロモーションさん、千代田プロダクションさん、オムニバスプロモーションさん、東京プロモーションさん、グロービジョンさん、東北新社さんというようなところがありました。たいていの音声制作会社は番町スタジオでアフレコをやっていましたね。
当時の番町スタジオには5つぐらいスタジオがありまして、外画ばかりでなく、歌のレコーディングやコマーシャルもやっていました。
番町スタジオは1968年頃に新宿区南元町に移転したんですが、その頃から私はアニメーションの『あしたのジョー』のミキサーをやりました。音響演出がグロービジョンの左近允洋さんで、後のオーディオ・プランニング・ユーの浦上靖夫さんが選曲、編集が後の現の松浦典良さん、助手に番町スタジオの原田がついていました。
当時は30分のアニメーションで使用するセル画の枚数が12,000枚ぐらいあったようですが−−今はだいたい4000枚ぐらいとか聞きますが−−このアニメーションには僕も感動しましたね。ボクシングですからマウスピースが口から飛び出すシーンがあったんですが、そのマウスピースがリングに落ちるまで15分ぐらいかかり、その間にすごい枚数のセルが使われていました。
毎週、収録が終わると主演のあおい輝彦さんと酒を呑みましたよ。帰りが同じ方向だったんです。あおいさんは声の仕事は初めてでしたけど、とても勘の良い方でした。アニメーションも役者さんも、もちろんスタッフも素晴らしくて、非常に面白い作品でしたね。
番町スタジオを離れたきっかけはどのようなことですか。
35か36歳の時に番町スタジオを辞めました。経営が悪くなっていたのか、その当時、月給が10万円ぐらいのはずだったんですけど、3万円ぐらいしか出なくなって。30歳で結婚していたので、これでは生活できないのでどうしようかと思っていました。この業界を辞めようかな、とすら考えていました。
その時期、東映アニメーションの『大空魔竜ガイキング』という作品でミキサーをやっていました。その現場で、フリーになろうかと思うと話したら、「東映の仕事をしてよ」と言われまして。ここでも腕を買ってくださる方がいたんですね。
それから今の事務所がある貸しビルに入ったんです。すぐに会社を起こした訳ではないのですが、4人ぐらいの人間がいました。個人事務所で一種の技術者の養成みたいな感じでやっていました。
東映アニメーションの仕事では選曲をたくさんやりましたね。ミキサーをやっていましたが、選曲もできないかと言われて『北斗の拳』とか『一休さん』とか…選曲をした数は数知れずという感じで、ちょっとわからないぐらいやっています。
番町スタジオに小松亘弘さんという方がいらしてました。小松さんはテアトル・エコーに所属していらっしゃいまして、元々は役者さんだったんですね。それが役者よりも芝居の音響効果(SE)をやるようになって、外画のSEも手がけられてたんですね。それと同時に移転前の番町スタジオで音響演出もおやりになってたんです。小松さんは効果に対してはすごくうるさい方でしたね。
当時はスクリーンが1枚で、手前で役者さんたちが演技して、裏側で効果屋さんが同時に効果音を付けるんですよ。どちらかがとちると「ゴメン」と言い合いながら進行するんですが、その代わり同時にやるから速いんですね。今じゃ考えられないですけど、足音などの抜けている音を一回全部チェックして効果を付けるんです。効果屋さんがふたりで、片方がハイヒール、もう片方が革靴を履いて、アベックをやったりしてました。私はそういうのを見てるので、効果を付けるのが大好きなんです。今のCDドラマでも効果が抜けてるときはスタジオに入ってポンポンと作っちゃいます。スタジオの若手には「よくそんなことできますね」と呆れられてますけど。
ミキサーとして東映の仕事をしている時に、東映のスタジオに行ったら、その小松さんが『一休さん』の音響演出をされていて、「ちょっと覗いていけよ」と言われて見学させてもらってたんです。するとその現場についていた選曲の人のハサミ使いが遅いんですよ。それで小松さんが、私に「変わってくれ」とおっしゃいまして。それから『一休さん』は終わりまで選曲をやらせてもらいました。
選曲の時は、曲が100曲あったら100曲全部をアタマに入れて、その画に合わせて「音楽ラインがこうだよ」って言われたらそれに合う曲を持っていくんです。6ミリテープで2台のプレーヤーから交互に曲を出して、それを編集して長さをピタッと合わせるんですね。
現在のデジタルのものは作業が速いんです。音のクロスとかきれいに簡単にできますしね。でも昔は音をクロスさせようとしても道具はハサミしかありませんでしたからね。テープをながーく斜めに切って、うまくヘッドを通るのを長くするということをやっていました。つなぐ曲のテープを10センチくらいに、斜めにスーっと切ってそれをつなぎあわせる。そうすると残ってる音と次に来る音がうまくつながるんです。真横に切ってつなぐと、そのつないだところでブツっと音がとびますから。今はMacとかでパパッとできちゃうものなんですけどね。
アニメーションの音楽を作るのには、田中公平さんなどの若い作曲家が来ていました。まだアニメーションの音楽をやったことがない人が多くいたので、その人たちにアニメーションの音楽の合わせ方というか、やり方を教えました。そういったこともあり、いまも『北斗の拳』の再放送を見ると選曲として私の名前が出ているようです。
音響監督へと転身されたきっかけは。
『赤毛のアン』などの、日本アニメーションの作品のミキサーをやっていたときに「(音声の)演出もやってみないか」と言われて演出を始めたんです。『新みつばちマーヤの冒険』という作品が音響監督としての最初の仕事でした。
是が非でも演出がやりたいと思っていたわけではなかったんですけど、その後もポンポンと仕事をいただいたものですから、自分なりの音響監督としてのスタイルを作って行くことになりました。何よりも大切にしたのは、先にしっかり画を観て、役者さんにきちんと伝えるということですね。
昔はアニメでもみんな集まってから一回リハーサルをやります。その前にこちらは全部調べておいて、「ここにブレスがあるよ」というような指摘をするんです。そうすると大抵その一回のリハーサルだけで本番も合うんですね。ですから2時間から2時間半ぐらいでアニメーションを1本録ってました。普通は3時間以上かかっていましたから、速いというのは随分とセールスポイントになったと思います。
それに時代も良かったのでしょう、アニメを専門にする音響監督が少なかったんですね。当時はまだ5〜6人しかいませんでしたから、1作終わると次の放送の作品が必ず来ていたので、営業をしなくても良かったんです。
なかでもキングレコードさんが可愛がってくださいました。大月俊倫さんというプロデューサーがいらしたんですけど、その方が「こんなヘンな監督がいるんだけど大丈夫?」なんて言って、次から次へ作品を持って来てくれてたんです。 『新世紀エヴァンゲリオン』もそうです。「庵野秀明っていう監督がいるんだけど」という感じで。「庵野さんと一回いっしょに仕事してしまえば、もう怖いものはないよ」なんて言われながらやらせていただきました(笑)。
やっぱりアニメーションの監督は、それぞれ個性が際立ってるんですよ。ゼロから世界を作る仕事というものは、やっぱりその個性が大切なのでしょうね。当然、画だけでなく声のイメージも持っているんですけど、その伝え方もそれぞれ個性的なんですね。まあ癖と言ってもいいかもしれません。ですからその癖を覚えるというのが大切です。監督のイメージをいち早く理解して、多くの出演者がそのイメージを共有できるようにきちんと伝えることが、音響監督の仕事の第一歩と言えるかもしれません。演出以前のところで、まずその監督を理解する。それができれば、アフレコの現場というのは案外速く進みます。
私にとって演出の先生は、グロービジョンで吹替えの演出もされていた左近允洋さんなんです。左近允さんの良い所だけ盗みましたね(笑)。アニメーションでは、先ほどもお名前を出しましたけど、小松亘弘さんですね。
左近允さんの仕事は速くて、「口なんか合わなくてもいい、流れでいこう」という人でした。良いこと言うなあと思って、ああ私もそうしようと思いました。
当時はチームワークも良かったんですね。脚本を書く人も、流行っている漫才の台詞とかをボンボン入れてくるんです。だから役者もみんなノってくるんですよ。
音声連と音声制作業界
音声連へ加盟されて25年になりますが、加盟された当時のことをお聞かせください。
音声連には、AUDIO・タナカを作った次の年(1991年)に入れていただきましたが、もう25年たちますか。当時は制作受注がバッと増えてきて、音声連に入らないと登録ができないなと思ったんです。そのとき音響映像システムさんが加盟会社だったので、社長の小野哲男さんにお世話になっていた縁で推薦していただきました。
音声連に加盟した頃がちょうど仕事のピークと言うか、すごく忙しい時期でしたね。アニメの他にもスクエア・エニックスさんやコナミさん、ソニー・コンピュータエンタテインメントさんなどゲーム会社からも仕事がきていました。そこでもアニメの音響制作で培ってきた手法、台本の作り方などを全てレクチャーして、良い役者をボンボン、キャスティングしていきました。
当時はとにかく仕事が多くて、無我夢中で仕事をしていました。だから音声連さんから会議と言われてもあまり出席する時間がありませんでした。アニメのレギュラーの他にゲームと、CDドラマもあって…週に4本アフダブ(アフレコとダビング)をしていました。
だいたい仕事は夜6時に終わってそこから朝6時まで酒呑んで、3時間寝てまた仕事するというような調子でした。10時にスタジオに行って、まずダビングをやるわけです。ダビングをしっかり観て、効果と音楽の直しをして、ちょっと横になって「ラステス(最終テスト)お願いね」と言って、また本番になったら眼が開くわけです。で、しっかり観て「はいOK!」って出して…その繰り返しでしたね。よく保ちましたね。作品に合う役者をキャスティングしてますから毎日会う役者が違うわけですよ。だから毎日呑む連中が違うんです(笑)。
キャスティングに関しては、色々な立場の人が希望や提案を言ってきますが、その中からしっかりした芝居をしてくれる人ばかりを集めます。だから1回観てすぐ本番に行けるんです。一時はタナカ組なんて言われてました。レギュラー番組の時には、いきなり本番でいくときもありましたね、「いくぞー」って。みんなすごく緊張するんですけど、良い作品になったりもするんですよ。
長い間、音声制作業界へ貢献いただき、このたび音声連の名誉会員になられました。業界を担う次の世代の皆さんに向けてメッセージをお願いします。
─最近の作品などを見ていると、もう少しキャスティングに気を使ってもいいのではないかと思います。アニメの場合、そこにいるキャラクターそのものの声を作るということですから。女の子ばかり出る作品などは、声の質で選んでいかないと誰がしゃべっているかわからなくなってしまいます。どうしても今は、かわいい子を使いたがる風潮があります。かわいい声をしていて、かわいい顔をしていれば良いという世界になってきたので、まあ演技ができなくても、イメージに合えば良いという感じでやっているようですね。これでは先が続かないんじゃないかと思います。
最近は雇われディレクターとしての仕事もしていて思うのですが、あっちこっちスタジオがありますね。それも決して大きくないスタジオが増えているようです。ひとりずつぐらいした録れないような大きさの。スタジオが大きくなくちゃいけないというのではないですが、こんな環境ではますます声優さんのスキルが必要になりますし、キャスティングする側も、よりしっかりしなくちゃいけないなと感じています。その点を若い人にも期待したいです。
その他に最近思うことなんですけど、中国から日本に制作に来る会社が増えてきていますね。日本の会社と合併して、技術を持っていこうと考えられているのかな。この間もうちに相談に来ましたけれど、日本の制作技術が優秀だからということで来るんですね。役者さんも良い人を使ってくれるから、と。でも予算を聞くと「とてもじゃないけど出来ません」というのがありますね。こういったことに今後どう対応していくのかを考えていくことも大切だと思います。
名誉会員になったからといって特別なことはできないと思っています。でもなった以上は、業界のためにも死ぬまでがんばろうと思っています。